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先生全員で1泊2日の合宿をした理由

新渡戸文化小学校は、4月10日に始業式を迎え、今年も無事新年度を開始しました。新年度が始まるときは、先生も子どもも緊張と興奮が入り交じった不思議な気持ち。どんな1年になるか、今年もまた楽しみです。

さて、実はこの日を迎える前の春休み。新渡戸文化小学校の先生たちはいつもと違う春休みを過ごしていました。

3月29日、先生と管理職計26人は、奥多摩の廃校となった元中学校に次々と集合していました。修了式を3月18日に終え、新年度を迎える直前。廃校となり宿泊施設へと変貌を遂げた中学校に集まった先生たちの目的は、合宿でした。

企業では少しずつその試みが浸透してきている「合宿」。「学校の先生たちでやるのは、すごく珍しいと思います」(合宿のファシリテーションを担った栢之間倫太郎先生)。新渡戸文化小学校にとっても、当然初めての試みです。当日は、新たに着任する先生の一部を除いて、欠席者はゼロ。小さい子どもがいる先生も、子連れ、パートナー連れで参加しました。この珍しい合宿で、先生たちは何を話したのでしょうか。

合宿ありき、ではなかった

元々この合宿を構想したのは、遠藤崇之校長補佐でした。開催を決めたのは2023年11月ごろ。「合宿をやろうということが先にあったわけではありませんでした」(遠藤先生)。2023年度は、ちょうど新渡戸文化小学校の様々な変革が始まった2019年度から5年が経とうとしていたタイミング。「取り組みについて、できてきたこと、課題が残る部分、その両方が少しずつ見えてきたころでした。その上で、今一度先生たちと管理職全員で目線を合わせたいと思ったのです」(遠藤先生)。

この5年間で、新渡戸文化小学校はたくさんの新しい挑戦をしてきました。教科学習をプロジェクトベースで取り組むこと、プロジェクト科を通じたスタディフェスタやスポーツデイなどの行事の取り組み、全校ミーティング。どれも新渡戸が掲げる「しあわせをつくる人になる」というビジョンに向けて大きなトライをした5年間でした。「まずはやってみよう」の精神で、子どもの「やりたい」という気持ちを受け止め、それに呼応するように先生たちが自らの創造力を発揮した授業を創り上げる雰囲気は、5年で大きく進化を遂げました。

「自由と責任」をどう育くむか

一方、そうした取り組みを進める中で、子どもが身につけるべきことを身につけられているのかという不安が沸いてきたといいます。「いわゆる『規律』のようなものを、どう子どもたちと一緒に学んでいくべきなのか、ということを考えたいと思いました。僕たちは、カルチャーとして『規律』という言葉にアレルギーがありました。今もあります。公教育を息苦しくしているものの中心に『学校のための規律』があることも知っています。規律という言葉を使うことが正しいかも今も分かっていません。ただ、自由と責任、という言葉があるように、新渡戸ではある意味、自由の部分では先生たちが一丸となって子どもたちの自主性を発揮させるよう取り組んできましたが、責任の部分をもう一段深く先生たちと目線合せしたいと思ったのです」(遠藤先生)。既存の学校を苦しめている盲目的なルールや規則を入れるつもりは一切ない。自分で自分を律することのできるような、それによって自分や友人が幸せになれるような「地図」のようなもの。それを先生と子供達みんなで持ちながら歩いていきたい。そんな思いから、合宿の構想を温めていったといいます。

学期中に、こんな一幕があったといいます。制帽を被らずに登校した児童を見て、杉本竜之校長が声をかけました。「制帽はどうしたの?」。被ってこなかった、と言うか言わないかその直後に児童がいった言葉に驚いたといいます。「新渡戸はゆるくなったんですよね」。

違う、そうじゃない——。新渡戸文化小学校が目指す「自律型学習者」になるために、必要な規律があるのではないか。ルールではない、縛り付けるものではない、「自律のための規律」というものがあるなら、それをみんなで考えたい。そう考えたといいます。

そのために、遠藤先生が考えたのは、2つの大きな取り組みと、任せる人員でした。取り組みとしては、修了式3日後に、2023年の振り返りを主目的とした研修を2日にわたって実施することと、その振り返りを持って挑む来年度への布石となる1泊2日の合宿。任せる人材は、日頃から教員の研修などを考える「プロジェクト・ラーニング・デザインチーム」を選びました。栢之間先生を含めた3人を中心にもう1人協力者を見つけ、4人にこの大きなプロジェクトを任せることにしました。「この先生たちとの大きなプロジェクト自体も、子どもたちと一緒に日々取り組んでいるプロジェクト科のように進められたらと思いました」(遠藤先生)。いかにも新渡戸らしい考え方です。

春休みのうち4日を費やして振り返りと次年度の取り組みを話し合うことを決めました

対話の文化を創り上げる

迎えた合宿前の振り返りの会では、プロジェクト科、全校ミーティングなど、テーマに沿って先生たちを5グループに分割。ポスターを作るワークショップを実施しました。さすがは、普段子どもと一緒にプロジェクト科を進めている先生たち。「ものすごい熱量のポスターができあがりました」(遠藤先生)。合宿に向けてよい前哨戦になったといいます。

先生たちが作成したポスター。大学のポスターセッションのように振り返りを進めたといいます。

そして迎えた合宿。「こういう企画をしたときに、なんで行かなくてはいけないのか、とか、そもそもの話が出てこないのが新渡戸のいいところ。まずは提案者を信じて、やってみよう、となるところが新渡戸の先生たちの素晴らしさだと思います」(遠藤先生)。

合宿の目的は、振り返りや課題の抽出を経て、「自律のための規律」の全体像を合意すること。一方、それ以前に大きな目標として、「対話できる空気の醸成」ということがあったといいます。

「大前提として『ここでは自分の存在が認められる』という心理的安全性の土台が構築されることを目指しました。そのために可能な限り対話的なワーク構成にしました。『自分の考えには価値がある。一方で自分の考えが必ずしも正しいとは限らない』という価値観を全教員が感じられたらいいなと思いました。なぜなら、これらがしっかりと土台にあれば、たとえこの合宿の中ですっきりしないことがあったとしても、その後少なくとも1年間、対話して乗り越えていく風土ができると考えたからです」(栢之間先生)。

「規律は目的じゃないですよね?」

合宿で「最もハードだった瞬間」(遠藤先生)が、開始直後に訪れます。そもそもファシリテーションチームが用意した進め方自体に疑問や提案が出てきたのです。「進め方自体を合意していく作業がしばらく続きました」(栢之間先生)。

例えば、ワークの一つにあった「卒業時に、身につけて欲しい規律」という書き方に対して、一人の教員から疑問の声が挙がりました。「本来規律は『手段』であって『目的』ではないのに、この言葉を使って進めると、目的のように感じられてしまう」。4月から新しく新渡戸に着任する予定の先生からも戸惑いの声があったといいます。新渡戸に赴任する先生の多くは、子どもたちが生き生きと学べる環境を求めて新渡戸に赴任してきています。突然「規律」という言葉がでたことに「なぜ規律なのでしょうか」と問う先生もいました。

お互いの信頼関係が醸成されている先生たちの間でも、大切なことを話し合う前には、しっかりとした波長あわせをする。「この先生たちだからこそ、できたと思います。そういう声が挙がっても『腰を折るようなことをしないでほしい』などとは誰も思わず、丁寧に向き合うのが新渡戸のよいところだと思っています」(遠藤先生)。

規律自体が目的では当然ないこと、規律という言葉さえ正しいかも皆で考えたいこと、一律の規律を子どもたちに押しつけることには引き続き一切与しないこと、そうしたことを話し合いながら、まず出だしから先生たちとの丁寧な対話が続いたと言います。

想像以上に出だしで時間を費やしたものの、目的と手段を今一度目線合せをしてからは、一気に議論が進んだといいます。

先生の拠り所となる「思考回路」

低学年、中学年、高学年の発達段階において、「自律のための規律」に必要なある種の「型」とはどのようなものだろうか。1日以上かけて、議論は続きました。結果、新渡戸の先生が、持つべき「思考回路」がまずできあがったといいます。

対話、対話、対話。

新渡戸が持つ教育の最上位目標「しあわせをつくる人になろう」を実現するための「12の学習者像」。それを目指すための「プロジェクト文化」と「対話の文化」。そのために必要な「自律のための規律」と「発達の仮説」を持ちながら、目の前の子どもたちを捕まえ、子ども一人ひとりの特性に合わせて各教師が最適だと考える方法でアプローチすること。これらが、合宿で先生たちが皆で創り上げ、目線を合わせた「思考回路」でした。先生一人ひとりが、何かに対峙するときに、拠り所となる道しるべです。

今までも、「しあわせをつくる人」や「12の学習者像」はあったものの、それらの繋がり、意識、それに紐付く行動指標のようなものが、先生によって認識が異なることがありました。そのことで、目の前の子どもたちに対応する際に、先生方の「教師観」に頼りすぎている側面が否めませんでした。「大前提として、教育の現場においてそれぞれの教師観に基づいて子どもと関わることは素晴らしいことです。それを十分尊重した上で、特定の領域においては自律のために皆の教師観の『幅』をある程度合わせたかったのです」(栢之間先生)。

各学年の発達の仮説は以下のようなものになりました。

「大きな声で、いつでも、必ず、挨拶」ではない

この仮説に沿うと、どんなことが生まれるのでしょうか。例えばあいさつを例に取ってみましょう。まず、前提として「みんながすべての人にすべてのタイミングで大きな声で挨拶をしよう」という一律の規律とは一線を画しました。

例えば、低学年については「あいさつが溢れている状態は、気持ちいいこと」「挨拶すると、よい体験に繋がる」といったことを体験として知ることに重きを置きます。「人間には個人差があって、大きな声を出せるときもあるし、出せないときもある。大きな声を出すことにエネルギーが必要な子どももいれば、そもそも大きな声を自然と出せる子どももいるし、出せない子どももいます」(遠藤先生)。そんな子どもに対して「なんで挨拶しないの」と指導するのではなく、挨拶のよさをわかるようにするということから始めます。

中学年はその前提の上で、挨拶するとどんな良いことがあるんだろう、という行為の意義にも気づく時期としました。挨拶がなかったときに、相手はどんな気持ちになるんだろう、ということを想像する。そういう想像力を身につけて欲しい。

高学年になると、挨拶の価値にまで広がります。学校外の人と関わることも増えてくるこの時期、挨拶にはどんな効果があるのか、挨拶をすると相手がどんな風に反応するのか、そしてその反応は自分にとってどんな価値が生まれるのか。価値と結びついた上で、行為がついてくるものだ、と理解するようになります。挨拶は、人と人との関わりさえ変えるものだということも分かってくるはずです。一連の流れを理解した上で、どのような言葉をかけるか、どのような方法で子どもにアプローチするかの手法そのものは、先生に委ねます。

これは当然挨拶に限ったことではありません。教員全員の「思考回路」、つまり、何が最上位概念か、そこに向かってどんな文化を醸成するか、その文化醸成のための方法はどようなものであるべきか、これらを理解した中で、教師がそれぞれの持ち場で子どもとの向き合いを重ねる。「対応の方法や手段は違っても、教員すべてが同じ『思考回路』を使ってその場で判断して行動できるようになることに価値があると思っています」(遠藤先生)。

しかしながら、これもまた新たなスタートラインに立ったに過ぎません。「規律」という言葉だけが一人歩きするのではないか、先生たちさえ不安になった規律自体の「目的化」になってしまわないか、当然不安も残ります。それでもまずは、「やってみる」。「幸せをつくる人になる」という最上位概念に向けてまず目線が揃ったことが、この合宿の大きな収穫だったといいます。

唯一無二の教員集団に

2日間の研修、1泊2日の合宿、これらを通じた膨大な対話を経て、先生たちが日々どのような思考で子どもたちと向き合うべきかという「思考回路」を確認し、各学年の成長過程に沿った「自律のための規律」の仮説をつくりあげ、合意できました。

合宿を終えて、栢之間先生はいいます。「今回の合宿ほど一人ひとりが全体の前で発言した会議はなかったように思います。普段は会議でもあまり発言しないタイプの方も含めて、ほぼ全員が自発的に発言していました。なぜなのかを考えると『合宿という本気度と適度な非日常感』が大きく作用した気がします。このような合宿ができ、有意義な時間をつくれたこと自体に達成感を感じました。今回の合宿では、ともすると大きな価値観の相違を顕在化させるようなテーマを扱いましたが、誰も浅はかな対立をせず、同時に誰も手を抜かなかった。手前味噌ですが、本当に唯一無二の教員集団だと思えました。今回の合宿の課題、ですか?もっと遊びたかったです…!!」。

さあ、新年度。常にトライアンドエラーを続ける新渡戸文化小学校の、新章が始まります。

いい雰囲気!

執筆:染原睦美
写真:学校提供

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